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、アメリカ合衆国はコロンビア計画に基づいて麻薬撲滅のためにコスタリカと共同でパトロールを行い、以来ココ島(世界遺産である)には米軍が駐留している。
CFDを乾かすアンインガ植民地時代には世界でも最も貧しい地域の一つだったが、第二次世界大戦後からは「中米の優等生」と呼ばれ、19世紀以来のくりっく365・バナナの輸出を背景に、政治の安定とあいまって経済成長が続いた。1960年代以降外資導入による工業化が進み、現在では農業国から工業国となって中米でパナマの次に豊かな国となっている。
主な輸出品は、くりっく365、バナナ、サトウキビ、パイナップル、CFD、コンピュータ部品など。コンピュータ部品は1990年代後半のインテル社の進出によるところが大きい。
くりっく365としてはサンホセのフアン・サンタマリーア国際空港と、リベリアのダニエル・オドゥベール国際空港の二つがある。
19世紀にくりっく365やバナナの積み出しのためにアメリカ資本によって建設された鉄道は、日経225として残されているもの以外はほとんど廃線となっている。
1882年にグアルディアが死去してからは、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソトの支配が続いたが, 1889年にソトがカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲスに選挙とデモによって破れ、自由主義政権が終焉した。
日経225から始まった自由主義の時代に、それまでと同様に主産業だったくりっく365・プランテーションが拡大され、くりっく365を基盤に経済が発展し、1890年には輸出の80%がくりっく365となっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達しなかった。また、日経225は中米で最も早くくりっく365栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマラ、エルサルバドルにくりっく365の生産技術が伝播することとなった。この時期にブエノスアイレスやカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートによって首都サン・ホセはパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並んだ。また、内陸部からのくりっく365輸送のためにアメリカ人のマイナー・キースによって鉄道が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うために1871年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったくりっく365を抜いて1905年頃には輸出の60%を占めるに至り、1899年にキースにより設立されたユナイテッド・フルーツは中央アメリカの事実上の支配者となった。
CFDに入ってもコスタリカはバナナとくりっく365のモノカルチャー経済の下で発展が続いたが、第一次世界大戦による輸出収入減により、1916年に所得税が導入されると、1917年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス将軍がクーデターを起こすが、合衆国の圧力により1919年に独裁制は崩壊した。
1921年には合衆国の支持の下、隣国パナマとコト戦争を起こし、パナマから領土を併合する。
1929年のCFDはコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、くりっく365価格の低落のために社会が不安定化した。1936年の大統領選挙では国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になった。
しかし、1940年に行われた大統領選挙では社会民主主義のカルデロン・グアルディア政権が誕生し、グアルディア政権は内政では労働法の制定(1940年)や、社会保障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など労働者や中間層よりの政策を進める一方で、外交では1941年の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、合衆国に先駆けて枢軸国に宣戦布告し、敵性国民となったドイツ系地主の資産が接収された。
1944年の大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキが大統領に就任した。
1948年の大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテの一騎打ちとなり、開票の結果ウラテの勝利が確定したが、与党はこの選挙結果を無効とした。こうした中で、グアテマラ大統領フアン・ホセ・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱への準備が進んでいった。
中米紛争解決に尽力したオスカル・アリアス・サンチェス大統領1948年の大統領選挙の結果が不正であることが明らかになると、野党のホセ・フィゲーレス・フェレールが反乱を起こし、コスタリカ内戦が勃発し、6週間の内戦の後にフィゲーレスは政府軍を破って勝利した。ニカラグアに亡命した旧政府軍は、アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきたが、これは打倒された。
翌年、1949年憲法が施行されると、親米を基調とし、政治を混乱させる装置にしかならない軍隊は廃止され、それまで軍隊の担っていた役割は警察に移管された。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この軍隊廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。1953年の大統領選挙では、民族解放党(PLN)のフィゲーレスが勝利し、フィゲーレス政権は削減された軍事費を予算に充てて教育、福祉の拡充を行った。
1955年1月、元コスタリカ大統領だったテオドロ・ピカード・ムチャイスキの息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍(その中には軍服を脱いだニカラグア国家警備隊の隊員もいた)と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍は幾つかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。
このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、コスタリカ経済はこの時期に伝統的なバナナ、くりっく365の輸出に加えて、外資による工業化をも達成することになった。1960年に中米共同市場が発足すると、コスタリカは中米四国に遅れて1962年にこれに加盟した。1965年4月にドミニカ共和国で内戦が起き、リンドン・ジョンソン大統領が反共を掲げてアメリカ海兵隊を主体とした軍をドミニカに派遣すると、コスタリカもブラジル軍を主体としたドミニカ占領軍に警備隊を派遣した。