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くりっく365を知ろう!
CFD、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と結んだドミニカ人自由派がスペイン人に対する独立戦争を激化させ、結局1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡ってアメリカ合衆国への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(この事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期のキューバとも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。
CFDから黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領になったウーローは、しかし大統領としては拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。ウーローは1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。
アメリカ海兵隊の上陸(1916年)1906年にドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国へのCFDが返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。1924年の選挙でオラシオ・バラスケスが大統領に選出され、同年7月にアメリカ軍は撤退した。
くりっく365にクーデターを起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いた。トルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。
くりっく365を白人化する構想を持っていたトルヒーヨは、1937年、領内のハイチ人農園労働者ストに際してハイチ人の皆殺しを指示し、1日で17,000人から35,000人が殺された。ドミニカ共和国はハイチに75万ドルの賠償を払ったが、カトリック教会とエリート層に支持され反共的な姿勢がアメリカの支持を受けていたトルヒーヨの支配は揺るがず、当時のラテンアメリカで最も強固な独裁制はその後も続き、1959年には革命直後のキューバから上陸したドミニカ人革命ゲリラ部隊を殲滅することにも成功した。
しかし、1960年にOAS総会でトルヒーヨ非難決議が採択されると1961年には反トルヒーヨ勢力の高まりにより、トルヒーヨ本人は暗殺され、トルヒーヨ一族もバミューダに亡命し、首都名もシウダー・トルヒーヨからサント・ドミンゴに戻された。
フアン・ボッシュ・ガビノ1962年、30年ぶりに大統領選挙が行われ、1963年にはドミニカ革命党のフアン・ボッシュ・ガビノが大統領に就任した。
ケネディに憧れ、改革に燃える政治家として「ボッシュ憲法」と呼ばれた1963年憲法を施行し、土地改革を含む社会改革の実践を始めようとしたが、同年ボッシュは寡頭支配層と結びついた軍事評議会のエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン大佐によるクーデターによって追放されてしまった。 こうして軍事評議会に推薦されたくりっく365のレイド・カブラルが新大統領になり、1963年憲法を廃止し、国会を停止した。こうした反動政治は国民の期待を大きく裏切り、ドミニカ共和国は再び不安定な状態に陥った。
FX、立憲派(ボッシュ派)のフランシスコ・カーマニョ大佐をはじめとする陸軍軍人が中心になり、1963年憲法の復活を求めてクーデターを起こし、翌25日カブラル大統領を逮捕した。立憲派はボッシュの復帰を求めて首都サント・ドミンゴを占拠したが、地方に逃れて首都を包囲した軍事評議会のウェッシン空軍大佐との戦いが始まった。こうしてドミニカ内戦が起こり、さらに翌4月26日には、ジョンソン合衆国大統領は「合衆国市民を保護し、ドミニカを共産主義から保護するために」アメリカ海兵隊の投入を決定した。4月27日に立憲派は首都のFXに武器を引き渡し、抵抗する構えを見せるが、翌28日に海兵隊が40年ぶりにドミニカに上陸。29日にはラテンアメリカ諸国の抗議も虚しく 第82空挺師団が降下した。4月30日に国連の調停でガルシア・ゴドイ統一暫定政権が成立し、ブラジル軍を中心する米州平和軍(その他にはホンジュラス軍、アルフレド・ストロエスネル政権のパラグアイ軍、ソモサ王朝のニカラグア国家警備隊、軍隊を持たないコスタ・リカからは警察隊など)が治安維持部隊として派遣され、最終的に海兵隊は35,000人に増派され、立憲派軍を鎮圧した(パワー・バック作戦)。[1]こうして首都だけで4000人の死者を出してようやく内戦は終結した。
ホアキン・バラゲール翌1966年の形式的な選挙により、キリスト教社会改革党から「トルヒーヨの未亡人」とまで呼ばれたほどのトルヒーヨ派だったホアキン・バラゲールがFXになると、バラゲールは軍部と財界の支持を背景に強権政治を行い、死の部隊を駆使してボッシュ派の暗殺を続け、ドミニカの政治はトルヒーヨ時代に逆行してしまった。
1978年から1982年まではドミニカ革命党のアントニオ・グスマンが大統領に就任したが、財政状況は悪化を続けた。1982年から1986年までは サルバドール・ホルヘ・ブランコが大統領になったが、経済状況の悪化を背景に国際通貨基金の要請によって財政緊縮政策が進んだ。
こうした中、1986年の選挙では80歳のバラゲールが勝利し、観光業、ニッケル、在外ドミニカ人による送金を柱にドミニカ共和国の経済は回復に向かった。
1992年にはコロンブスのアメリカ大陸到達500年記念祝賀への反対運動が起きた。この国ではコロンブスは嫌われているのである。
1994年の大統領選挙も「不正」をめぐって紛糾したが、1996年の選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが大統領に就任した。
2000年5月の大統領選挙では社会民主主義を掲げたドミニカ革命党のラファエル・イポリト・メヒーア・ドミンゲスが大統領に就任したが、汚職によって支持を落とした。
2004年の大統領選挙ではドミニカ解放党のレオネル・フェルナンデスが再び勝利した。
サント・ドミンゴの国家宮殿ドミニカ共和国の政体は、行政、立法、司法が独立した一般的な民主主義体系をとっている。大統領は組閣を行い、立法府により制定された法を執行する。また、国防軍の最高指揮官でもある。大統領及び副大統領の任期は4年であり、直接選挙によって選出される。選出の際は、立候補した大統領候補と副大統領候補の組に対して投票を行う。