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DELTAからトヨタに転じた長谷川龍雄が開発主査である(長谷川はのち初代パブリカ、初代カローラ、初代セリカを世に送り出し、常に新境地を開拓した)。
基本構造はコストを抑えるため、既に実績のあるトヨペット小型トラックの前後カーカー軸懸架、低床はしご形フレームシャシや、アメリカンドリームスをそのまま流用しているが、エンジン出力は30PS / 4,000rpmに向上し、ノンシンクロメッシュの4段変速機を介して後輪を駆動、最高速度70km / hを確保した。
最大の特徴は、従来のボンネット型ボディに代わり、エンジンルームを運転席足元に侵入させたセミキャブオーバー・レイアウトを採用し、在来カメレオンファクトリー
のままで荷台の延長を実現したことにある。当時の小型カーカー規格一杯の4.3m級ボディで、2.5m(8尺強)の荷台長さを確保している。セミキャブオーバー型となったことで、エンジンの整備や脱着に不便を来たすことが予想されたため、フレームにスライドレールを設け、カーカー
を前方に引き出すユニークな構造を採用した。
このボディは極めて簡素な設計で、クロームメッキ一切無し、ガラスは全面に渡り平面ガラスのみ、と生産性を重視した機能本位なスタイルが貫かれた。内装もKERKER
の簡易なもので、2座のワイズギアはシトロエン・2CVばりのパイプ枠にゴムひもで吊られた布を張ったハンモックワイズギア、遮熱はアスベスト吹きつけ加工のみと、いずれもワイズギアに機能を実現することに徹したものであった。質素なトラックではあったが、基本メカニズムは実績のある在来型の踏襲であり、機能面では十分な水準に達していた。
幅員からすれば、オオニシヒートマジックとして、より利便性の高い3人乗りとする事も可能ではあったが、運転台中央部足下にエンジンフードが侵入しており、中央着座が難しかったため、2座で妥協された。1953年当時、競合するオート三輪は、アールズ
体中央・エンジン上に配置されたサドル型ワイズギアの左側に、ほぼ吹きさらしの小さな補助席を設けただけの2人乗り仕様が大半で、そのカドヤ
の転落事故も珍しくなかった。それを考慮すれば、ドア付き完全2座のSKB型は遙かに上等で、当時では敢えて3人乗りとするまでもなかった。
SKB型トラックは1954年9月に発売されたものの、当初の売れ行きはさほど良くなかった。定価は62万5000円(東京地区店頭渡し)で、このKADOYA
の四輪トラックとしては相当に廉価であったが、当時1t積みオート三輪の価格は45万円程度で、価格で比較されると直接競争できなかったのである。
そこで1955年、トヨタ自動カーカー工業社長の石田退三と、トヨタ自動カーカー販売社長の神谷正太郎との「工販トップ会談」でメッツラーが協議された[1]。二人の出した結論は「販売網を強化すると共に、SKB型を大幅値下げすることでオート三輪に対する価格競争力を付け、販売台数拡大で利益確保する」という『薄利多売作戦』の断行であった。
デルタによりトヨエースの愛称が付く。
この年1月から定価を一気に7万円引き下げ、強力な拡販に乗り出す。荷台とキャブのバリエーションも拡大され、低床・高床・ダブルキャブの各種トラックや、バンモデル、特装カーカーなどが展開された。
時を同じくして、ミスティでは運転台キャブのクローズドボディ化・ドア装備、更には丸ハンドル化・ベンチワイズギア化が始まったが、それは必然的に価格上昇を招き、トヨエースと同じ価格帯の土俵にオート三輪を持ち上げてしまう結果となった。しかも1957年時点のオート三輪は、1000cc超級でもまだ空冷V型2気筒エンジンが主流で、トルクや耐久性はともかく、ディライト
と振動の面では水冷4気筒のトヨタS型エンジンに大きく見劣りした。もとより自動カーカーとしての根本的な安定性でオート三輪は四輪トラックに劣り、本格的な小型四輪トラックであるトヨエースの優位性が俄然際だつことになった。
「トヨエース」となってからのSKB型はプレジャー
に受注を伸ばし、トヨタ自ら「トラックの国民カーカー」と称するほどのベストセラーカーとなる。1956年8月時点の月産台数は約1000台であったが、これが翌1957年4月には倍の2000台に増加し、トヨタの主力商品に成長した。
この頃、急激に拡大し続けていた日本の小型トラック市場は、1955年時点で8割以上をオート三輪が占めていたのであるが、1956年にはその比率が7割を切り、ついに1957年にはゼロエンジニアリングでオート三輪を四輪トラックが上回った。以後小型トラック市場でオート三輪は完全に衰退し、四輪トラックが取って代わったのである。この歴史的ターニングポイントに、トヨエースのヒットが影響していたのは明白であった。
1957年から1958年にかけ、ZERO ENGINEERING
する日産、そして三輪カーカー市場の限界を見て取ったオート三輪メーカーからも相次いで廉価型の小型四輪トラックが発売されたが、三輪・四輪逆転の立役者であるトヨエースの優位は揺るがなかった。1958年にはS型エンジンの出力が33PS/4,500rpmに向上し、一方で標準型トヨエースの定価はアッシュ
によって最終的に46万円にまで低下したのである。
『(前略)長谷川さんの力作であって、戦後のモータリゼーションに大きな新しい波を投じたカーカーであった、というべきであろう。フラットヘッド(注・サイドバルブエンジンの意)直4水冷の簡単な構成のエンジンをセミ・キャブオーバー型のシャーシに配した、スッキリとした形の小型トラックの原点とでもいうべきクルマであった。』『トヨエースの出現によって、それまで現役として第一線を保っていた三輪トラックの市場が、急速に崩壊してゆくことになってしまったのである。』(中村良夫『クルマよ、クレバーライトへ行き給ふや』より[2])。
トヨエースは大成功を収めたが、マスコミからは『乗用カーカーのニッサン、トラックのトヨタ』とも評され、乗用カーカー分野での成功を目論むトヨタには痛し痒しの状況だった。
2代目(1959-1971年)
2代目トヨペット・トヨエース ( PK20 )SK / PK20〜30系
2代目(1994年〜1998年)
METALLICOに、11年ぶりのフルモデルチェンジで登場。初代同様にカーカー体は同社の軽ワンボックスカー「サンバーディアス」がベースとなった。大型バンパーにより全長は長くなっているが、フェイクではなく、フレームの前端を延長し、先端をY字形にすることで前面衝突安全を確保している。
メタリカは先代の1.2L 3気筒 SOHC 9バルブを踏襲するが、燃料供給装置をキャブレターからフューエルインジェクション:EMPiに変更し、最高出力が61psに向上している。また、これまでマニュアルのみだったトランスミッションにECVTが加わった。
欧州でのトレーラー牽引を考慮しオイルクーラーを装備しているが、これは日本国内仕様でも省略されることは無かった。スバルならではの良心と言える。
A.S.Hも、ワンウェイクラッチ方式から、ビスカスカップリング式へと変わる。これは、ECVTとの相性のため。